冷戦(れいせん、冷たい戦争=Cold War)は、第二次世界大戦後の世界を二分した、ソビエト連邦を盟主とする共産主義(社会主義)陣営とアメリカ合衆国を盟主とする資本主義陣営の対立構造。1945年から1989年まで続き、直接武力衝突する戦争を伴わなかったため、武力衝突を意味する「熱い」戦争に対して、このように呼ばれた。
冷戦での両陣営の対立の境界であるヨーロッパにおいては、ソビエト連邦を中心とした共産主義(社会主義)の陣営(共産圏)は、東欧に集まっていたことから東側、対するアメリカ合衆国を中心とした資本主義陣営は西側と呼んで対峙した。対立構造の中で西欧は統合が進んだ。
1979年、ソ連がアフガニスタンを侵攻し、共産主義の傀儡政権を建てた。このため、西側世論が反発して東西は再度緊張、影響は1980年モスクワオリンピックの西側ボイコットとして現れた。東側は報復として、1984年のロサンゼルスオリンピックをボイコットした。
またアメリカはアフガニスタンの反共勢力「ムジャヒディン」を援助したため、ソ連はアフガニスタンを完全に制圧することができなかった。侵攻の長期化によってソ連財政は逼迫し、アメリカは間接的にソ連を弱体化することに成功した。
1985年、ソ連共産党書記長に就任したミハイル・ゴルバチョフは改革(ペレストロイカ)および新思考外交を掲げて、国内体制の改善と大胆な軍縮提案を行い、西側との関係改善に乗り出す。1987年にアメリカとの間で中距離核戦力全廃条約(INF)を調印した。この緊張緩和によって、両国の代理戦争と化していたオガデン戦争やアンゴラ内戦が1988年から順次終結、リビアとフランスが介入したチャド内戦も終結した。カンボジア内戦も88年から和平会議が開催された。
アメリカは1990年8月のイラク軍によるクウェート侵攻(湾岸危機)を皮切りにアラビア半島に展開、翌1991年1月にイラクとの間で湾岸戦争に踏み切り、これに勝利した。湾岸危機の際にソ連は調停役に回ろうとしたが、弱体化したソ連をイラクは相手にしなかった。イラクを下したアメリカは世界の盟主として自信を深め、その後はパレスチナ問題を中心に中東への関心と介入を深めていく。
ソ連は1991年3月、バルト3国を除く首脳が、連邦の権限を縮小した新連邦の構想に合意した。しかし新連邦条約調印直前の8月、ゴルバチョフの改革に反抗した勢力が軍事クーデターを起こし、ゴルバチョフを滞在先のクリミアで軟禁状態に置いた。クーデターは、ロシアのボリス・エリツィンの活躍やクーデター勢力の準備不足から失敗に終わった。しかし、その結果バルト三国は独立を達成、各構成共和国でも独立にむけた動きが進み、12月8日に、ロシアのエリツィン、ウクライナのレオニード・クラフチュク大統領、ベラルーシのスタニスラフ・シュシケビッチ最高会議議長がベラルーシのベロヴェーシの森で会談し、ソ連からの離脱と独立国家共同体(CIS)の結成で合意した(「ベロヴェーシの陰謀」)。こうして12月25日をもってソ連は解体した(ソ連崩壊)。
.


